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1月, 2019の投稿を表示しています

1月最終日

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今日で1月が終わりですね。 新年明けてから1か月があっという間だった気がします。 1月は旧暦で睦月、意味は一年の初めに仲睦まじく過ごす月らしいです。 大きなもめごともなくきっと過ごせたと思っております。 今年のブログの記事数はこれも含め18個、まあまあの更新ペースです。 ビュー数がBloggerによると257、アナリティクスによると190です。 そういえば今月アメリカの方からの閲覧が、ブログ初めてから一番多かったです。 グローバルに届けられるようになるといいな、という野望いだきながら活動していこうと思います。 そういえば一昨年の9/1に始めた自宅トレーニングの日数が今月500日超えました。 一日もサボることなくここまでこれた自分にちょっと感動しています。 え?体調すぐれない日ですか? もちろんやりましたよ。39度の熱が出ていても。 かなりメニューは削減しましたけど、とりあえずやったという実績だけは毎日残しました。 他にも1月いろいろありましたが、長くなるのでこの辺で。 2月は如月、衣更着(きさらぎ)と書き、なお寒く着物を更に重ね着する月のようです。 雪が降るとの話もあり、ますます体調に気を付ける必要が出てきました。 皆様もお体ご自愛の上、ご活動ください。

世にある制度はどこかの誰かのためにあることを忘れない

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新しい制度が始まると「これいらなくね?」とか「しょうもない制度だなあ」とか言う声が上がる。 上から降ってきてかつ自分に取って全く有益な状況が浮かばないものはなおさらそんな気持ちになってしまいます。 社内のセキュリティなんてそうなりやすくて、お客様の情報を守るため、ひいては自社のためにつながるんだ、と言われても現場の人からすれば、煩雑な手続き増やしやがってとなりがちです。 申請の手順が変わるとか、今まで時々やるだけで良かったのが毎回義務化されるとか、この辺りは反発招きやすい気がします。 ただこういうの思わず口にしてしまうの良くないよなあっていう反省を込めて今回この投稿書いています。 当たり前の話ですが、世の中にある制度はすべからく誰かの益になる、言ってしまえば誰かが得をするから、その制度が出来るわけです。(もちろんマイナスをゼロの状態に持ってくるパターンもあると思います) だからはたから見たらどれほどしょうもないと思えるような制度であっても、100人中99人がいらないと思えるようなものでも、誰かが得をしたいから作られるわけです。 それを考えれば、これは何のためにあるのか、誰のためを考えられているのか、を一切考えず、自分にとっていいものではないからと言って、一言で切り捨ててしまうのは、一つの思考停止なんじゃないかなと思うわけです。 もちろん時が経ち時代に合わなくなっているものもたくさんあるし、 新規の制度だって話合えばもっとよくなるものもたくさんあると思います。 見直すことも議論することももちろん大事ですが、それが誰かのためにつくられたのか、作られようとしているのかは頭の片隅にいれなければなりません。 自分だったらそんなもの作らないのにと、はなから考えを放棄しないようにしないといけません。 いやホント反省だなと思います。 新しい制度も今ある制度もきちんと考えてみることを忘れないようにしたいと思います。

テセウスの船と会社

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テセウスの船というのをご存知でしょうか? 船そのものの名前というより、考え方の一つなのですが。 テセウスの船(wikipedia) テセウスの船はパラドックスの1つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体(オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、基本的に同じであると言える(同一性=アイデンティティ)のか、という問題である。 難しいこと書いてありますが、 「ここにAと言う名前の船があります。1日1つパーツを取り替えます。30日経過して全てのパーツを入れ替えました。さてこの船はAと同じでしょうか?同じと言って問題ないでしょうか」 みたいな感じです。 今回はこの話と会社について少し書いてみようと思います。 テセウスの船というのは、中身が全部変わってもそれを元のものと同じと言っていいかという話になります。 日本は世界でも長寿企業が多いと言われている国なので、100年を超えている企業も多くあります。 さっき簡単に調べると1万5千社以上あり、2位ドイツの1千社とかなりの差があります。 まあ一概に長いから良いというわけではないと思いますが。 100年も続けば当たり前ですが、中の従業員の方々も入れ替わりも多くあって、最初にいた人はいません、というような状況も普通にあるはずです。 人が全て変わり、モノが全て替わった時、その会社や組織は元のモノと同じだと言えるのでしょうか? どっちなんでしょうね? そりゃ違うでしょ、と言う人もいれば、同じだという人もいるでしょう。 乗せてる想いが同じなら同じという意見も目に見えるモノが違えば違うというのも正しいと思います。 「創業者の想いを受け継いでいこう」みたいなのは、同じだと考える人がいるからこその思想だと思います。 また全く中身が変わらないのであれば、それは時代の進化に取り残されているだけとも言えるのかもしれません。 個人的には中身が変わったら別物だと考えてしまうのですが、皆さんいかがでしょうか?

朝型か夜型かなんてあまり気にしなくていいのかもしれない

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世間的には朝型の方がいいよみたいな論調の方が声大きめかなと感じるところなのですが、遺伝子レベルで夜型という人もいるみたいですね。 元々は狩猟時代に夜見張りする人が必要で、その遺伝子が受け継がれている人は夜の方が活動しやすいみたいです。 皆様は朝型でしょうか?夜型でしょうか? まあこの2つどちらにも当てはまらないという方もいるでしょうし、くくり自体そんなに意味はないのかもしれませんけど。 学生時代、私は基本的に夜勉強し、朝ギリギリまで寝て登校するという日々を送っていました。 部活とか終わって勉強するのもそんなものだと思っていましたし、大学で資格試験の勉強していたときも毎晩勉強していました。 なので、ずっと夜の方が自分の活動捗ると思っていました。 ただ社会人になって同じように夜勉強しようとしたら、これがなんと全くできない。 家に帰って食事して、一息ついている間にもう眠い。 勉強しようという気が一切起きない。 これではダメだということで、朝出勤する前に勉強するスタイルに変え、試験は何回かダメでしたが、何とか合格にこぎつけました。 意外に朝に集中して活動できるものだなと発見した瞬間です。 ただ他にも要因があると思っていて、社会人になってから一人暮らしを始め、勉強そのものの環境がガラッと変わってしまったことも一つの要因かなと。 さて言いたいのは、人それぞれスタンスがあるし、一番力の発揮できるのは何かというのを知っておこうという当たり前のことです。 また知った後にそれが自分の唯一の正解だと思わないことも大事かなと思います。 私は朝に集中した時と夜に集中した時というのを、同じ資格試験という勉強でやってみましたが、どちらが良かったではなく、その時々の能力や環境にもよるということを、この体験で実感しました。 夜型だろうが朝型だろうがどうでもよくないですか? たまに「こっちじゃないからダメ」と悩んでいる人いますが。 睡眠時間も活動時間も自分がフルパワーを発揮するにはどれが良いか、パワーを継続するためにはどうするのがベストか。 それさえ把握しておけばいいと思っているのですが、いかがでしょうか。

Happy Birthday!

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というわけで今日29歳になりました。 最後の20代、いい1年にしていきたいなと思います、というかしますので皆様よろしくお願いします。 朝一で親からお祝いのメールが来たり、社員の方々から祝っていただいたりと、本当に人に恵まれていることを実感します。 スタートの幸先の良さに感動です。ありがたい話です。 まあ誕生日を迎えたからと言って何かあるわけではないですが、ただ年齢を重ねただけの人と言われることのないよう精進していかなければなりませんね。 30歳も近づき年相応の振る舞いというのもあるのでしょうけれど、相応ということは期待通りというわけですから、期待を超えるってこともないわけですので、良い意味で相応でない動きも出来たらいいなと思ってます。 期待超えていきたいですし。 もちろん基礎守った上で、やることやった上では前提で。 そうしないと「型があるから型破り、型がなければ形無し」の形無し状態になってしまいますから。 まだまだ至らないところありますが今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

春から冬、青から黒まで

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通勤の電車の中、「青春を〇〇」「青春が△△」みたいな広告を見ました。 青春を謳歌するというのは大事なことなんだろうなと思います。 楽しみ方は人それぞれでしょうし、何をもって楽しんだとするかも人それぞれでしょう。 少し前に第2の青春を楽しもうというような企画を見て、ある人が「それぞれの年代にもそれぞれ名称があるのだから、第2の青春はおかしいのでは」みたいなことを書いていました。 第2の青春は、年を召した方が気持ちを若くして活動しようといったニュアンスでしょうし、上のようなことを言った人もそこはわかっている感じでした。 それぞれの名称って何だろうと思って調べてみると、「青春・朱夏・白秋・玄冬」という言葉があるみたいです。 年代的にはそれぞれ、 青春:16歳~20代 朱夏:30代~40代 白秋:50代~60代前半 玄冬:60代後半~ のような感じになるみたいです。(諸説あるみたいなのでざっくりです) 今日、私は28歳最後の日なので、あと1年青春時代を名乗ることができるみたいです。 春夏秋冬の順序と意味合いはわかりやすいとして、色もそれぞれ意味あるみたいですね。 青は青二才という言葉もあるように、若いとか未熟とかで、春もこれから成長していく過程のような感じなので、一番最初に来ます。 玄は玄人という言葉があるように、卓越したとかの意味があって、冬は生命が巡る最後の地点なので、最後に来ています、といったところでしょうか。 素人調べなので興味ある方は詳しく調べてみてください。 この話とは全然関係ない余談ですけど、元々色すべてこの4つで表現していたというのは、そこそこ広まっている話のように思います。 なのでこの4つだけ、「青い・朱(赤)い・白い・玄(黒)い」というように「〇〇い」と表現できます。 「黄い・緑い」とは表現できません。(「黄色い」という表現はできるが、緑に関しては「緑色い」という表現もできない) 余談終わり。 もともと青春という言葉たちは中国から来ていますが、この青とか玄とかよく出てきますよね。 有名なのだと青龍・朱雀・白虎・玄武というのがあると思います。 まあ年代の呼び方はいろいろありますが、いついかなる時も今が一番充実してるなと思

新卒採用相談所

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最初に。 新卒採用でご相談、というと堅苦しいので、なんか社会人の人とだべってみたいとか、こんなこと話してもいいのかわからないけど聞いてみたいみたいなことがあったら、ぜひお話ほしいです。(私が学生の皆さんと話をしたいだけというのもあります) リクルートサイトからご連絡いただくか、このブログの問い合わせフォームからお問い合わせください。 MAP経営リクルートサイト MAP経営リクルートサイト問い合わせフォーム さて書きたいこと書いたので、今の新卒の採用活動がどうなっているのかや自分の時はどうだったかなどでも書き連ねることにします。 2020年卒の就職活動が目前というかもう始まっていますね。 スケジュール調べてみるとこんな感じみたいです。 マイナビ2020より引用 これを見ると2020卒は2018年の6月から始まっているという扱いのようですね。 他のリクナビやキャリタスのサイトを見てみると大体同じ感じだったので、大まかには間違いないかと思います。 これを見ると入社の2年近く前から活動始めることになりますが、3月を迎えるまではインターンに参加するのが多いみたいです。 私も10年近く前にインターンに参加したのを思い出します。 私の代である2012卒は3年生の10月から企業エントリー開始だったので、インターンに行く人は、3年生の夏休みに行っていました。 情報系の資格持っていたのでシステム開発系の会社で1週間お仕事をさせていただきました。 その会社は例年2週間インターン生を受け入れていたのですが、業務の関係なのか1週間しか受け入れがなく、そのインターン自体は不完全燃焼で終わったのを覚えています。 それはそれで学ぶものがあったとは思います。 面接受けたら1次面接でお祈りメールが届きましたけど。 まあそのおかげで今があると思えば、悪いことではなかったとは思います。 さて、これからインターンを受けるという方もいれば(冬休み終わったのでもうないかもしれませんが)、もう受けて説明会や面接の準備に入っている方もいれば、インターンなんて関係ないという方もいるでしょう。 売り手市場と呼ばれていますから内定をたくさんもらえる方もいるでしょう。 そんな中で納得できる会社に行ってほしいなと思います。 納得できる会社選びとし

フェイクニュースはどこにだって転がっている

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「 日経新聞ですらwebでフェイクを流す時代には、一般常識としての「ファクトチェックスキル」が求められる。 」を読んだ時、そこそこの衝撃を受けました。 リンク先には日経新聞が”無意識のうちに”事実と異なる情報を流すという事実が書いてある(と私は解釈しました)。 メディアに限らず、人間というのは自分に取って有利な情報や伝えたい情報を、意識的もしくは無意識的に抽出してしまう。 そういうことは頭ではわかっていたし理解していたつもりではあったが、本当に理解していただけで納得は出来ていなかったんだなと実感しました。 きっと毎日かなりの数のフェイクに晒されていると思うと、防衛する術を身につけないと怖いですね。 リンク先の中身を少し紹介しようと思います。こんなことが書かれています。 2018年も年の瀬が迫った12月21日。日経新聞の電子版に以下のような記事が掲載された。 「婚前契約じわり広がる 夫婦のルール、事前に取り決め 結婚後の生活ルールや離婚した場合の慰謝料、財産分与などについて、夫婦で結婚前に契約を交わす「婚前契約」が広がっている。3組に1組が離婚するといわれる中、結婚に不安を感じる男女が増えているためだ。」 この記事はまさに、少し冷静に考えればわかるほどのフェイクを前提にしており、そこから導き出した無意味な結論だが、おわかりだろうか。 冷静に考えて欲しいのだが、肌感覚で、周囲の夫婦の3組に1組が離婚しているという職場やマンション、町内会に住んでいる人はいるだろうか。 田舎の年老いた父母の住む家を想像してみると、3組に1組が離婚するということは、実家、右隣、左隣のいずれか1組が離婚しているということである。 30%の離婚率というわけである。 そしてリンク先には厚生労働省の 人口動態統計の年間推計 と並べて比較されているが、こちらは離婚率は高くても3%もないということが、調査でわかっている、とも書かれています。 日経新聞と国と計算方法の違いだけでここまで差が出るわけだが、この場合は国の方が正確に出していると言えると思います。 日経新聞の計算は1年の婚姻数と離婚数を単純に割っているだけなので、人口が減っていることを考慮に入れていないということのようです。 細かくは リンク先 を読んでみてほしいと思います。 さて

日の出と中野坂上

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MAP経営東京本社の最寄り駅、中野坂上。 今朝着いたらいつもより明るいなあと思ったら、だんだん日の出が早くなってきてるからですね。 ここ1ヶ月くらいは日の出より前に来ていたので、真っ暗だったのですが、冬至も超えてだんだん明るい時間が長くなってくるのかなと感じます。 最近の日の出の時間はこんな感じ。 12月16日 06時44分 01月01日 06時51分 01月21日 06時48分 今日中野坂上に着いたのが、6時40分くらいでしたから、日の出との追いかけっこに抜かれるのも時間の問題ですね。 私は朝に活動する時間を多くとっているのは、昔資格の勉強していたときの名残だったりします。 学生時代のノリで朝と昼仕事してから夜に勉強できるだろうと思っていたら、全く手に着かず、 仕事疲れもあるし、何より初めての一人暮らし、人間自由を手に入れるとダメだというのは自分に当てはまっていたんだなと実感しました。 こういうのもあって、大学時代は夜に勉強していたのを一気に逆転させて、朝とりあえず外に出て勉強せざるを得ない状況に身を置けば何とかなるという状態にして乗り切りました。 まあ何回か不合格通知が家に届きましたけど。 いつまでも同じ方法でうまくいかないのが世の常です。 よく言われるように周りが変化している以上、自分も変える必要があるところは変わらないといけないのでしょう。 朝の明るさを見て、季節も変わってきているのだなと感じます。 そんなことを思った1/21の朝でした。

今朝の占いを見て

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今日の朝の占いを見ているとみずがめ座が一位でした。 私、みずがめ座なので今日はいいことが起こるのかなと少し思っていました。 私は占い自体の存在は信じているのですが、こういうような星座占いとかは懐疑的に見ているところがあります。 とういのも上位の星座は絶対にいい結果が出てて、下位の星座は絶対に悪いことが書いているじゃないですか。 いや日によっては、1位から12位まで全員いい結果になります、みたいな日があってもよくないですか? 12位の星座であっても普段の4位くらいの結果あってもいいと思うのですが。逆も然りですけど...。 まあ素人考えなので、専門の人が考えれば色々あるんでしょうけど、そんなことを思った朝でした。

思いを受け継いでいくこと

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今日1/17は何の日でしょうか? wikipediaにはこんな言葉が並んでいました。 ・防災とボランティアの日 ・おむすびの日 ・ひょうご安全の日 これらを見てお気づきの方もいると思いますが、1/17は阪神・淡路大震災の日です。 おむすびの日も震災関連の記念日です。 私は震災が起きる5年前に生まれ、以降22年間大阪在住でした。 震災当時も大阪にいたので、大きく揺れたのを覚えています。 食器が割れたり壁がはがれて中身が見えたりと、家の中もそれなりに被害にあった記憶があります。 今朝ニュースでは黙祷の様子が映し出されていました。 後世に震災の記録・記憶を伝えていきたいというお話もありました。 当時体験された方の高齢化も進み、だんだん色あせていくのが心配だというのがあるようです。 その心配もわかりながらもふと思いました。 表に出ない形で引き継がれていくんじゃないかなって。 この震災以降、防災についての制度や考え方が変わったものがありますよという話は、時々テレビでも見かけます。 全部が本当かどうかは置いておいて、建物の建築基準だったり、備蓄の内容だったり、救助の内容だったりと、いろいろあるはずです。 そうやって人類は教訓にしているわけです。 震災の体験やリアルな恐怖はどうしても全てを伝えることはできません。 でも伝える必要があるのはきっと恐怖そのものではなく、そうならないために何が出来るかのはずです。(実際の現場の体験を伝えなくていいとうわけではありません) 「同じ思いをしてほしくない」と願うなら、何をしたらいいかを示したり、考えるきっかけを作る、そしてそれこそが、間接的にでも記憶を伝えていくってことなのではないかなと思うのです。 思いを無駄にしないためにも出来るところからやっていきましょう。

連帯保証と法律

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前回の続きで今回は保証について。 連帯保証語る上でまず押さえないといけないのは、通常の保証とは何が違うのかということですが、同じだと思っていたほうがいいかとは思います。 借金の保証人になれば、連帯だろうとそうでなかろうと、借りた人に何かあったら代わりに返済する必要があります。 じゃあ何が違うのかというと、法律にこんなことが書いてあります。(書いているというのがわかればいいので、読み飛ばして大丈夫です) (催告の抗弁) 第452条 債権者が保証人に債務の履行を請求したときは、保証人は、まず主たる債務者に催告をすべき旨を請求することができる。ただし、主たる債務者が破産手続開始の決定を受けたとき、又はその行方が知れないときは、この限りでない。 (検索の抗弁) 第453条 債権者が前条の規定に従い主たる債務者に催告をした後であっても、保証人が主たる債務者に弁済をする資力があり、かつ、執行が容易であることを証明したときは、債権者は、まず主たる債務者の財産について執行をしなければならない。 (連帯保証の場合の特則) 第454条 保証人は、主たる債務者と連帯して債務を負担したときは、前二条の権利を有しない。  どういう意味かというと、保証人には452条と453条に書かれている権利あるけど、連帯保証だと、その2つは使えませんということです。 その2つとは何かというと、1つ目は「借りた人にまず請求してよ」という権利です。 当たり前と言えば当たり前の話で、まずは借りた人から返してもらうべきでしょ、というだけの話なのですが、連帯保証だとこれが出来ません。 つまり保証人側にダイレクトに請求が可能です。 2つ目は「借りた人が本当にお金持ってるか私証明できるからそっち先!」という権利です。 借りた人がお金を持っているか調べて、それを返済に充てて、それでも足りないときに初めて、保証人に請求できますよ、ということです。 連帯保証はこれがなく、借りた人がお金持っているかなんて関係ないので、払ってもらっていいですかと言われても、拒否できません。 連帯保証が「その人の借金を肩代わりしているのと同じ」と言われる所以です。 借りた人を一切介さずに満額請求されても拒否できないわけですから。 保証人はちゃんと考えろというのも、こうやってひも解いてみ

返済期限の決め方と法律

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大学でビジネス法を専攻していた森脇です。 ビジネスに関する法律ということで、会社法とか商法とか大きな部分もあれば、独占禁止法のような結構細かいところも学んだりしました。 日本法人と海外法人でトラブルになった場合、どこの国の法律のどこの国の裁判所で裁判するかなんてかなり複雑で、場合によっては、日本の裁判所で相手の国に法律で裁判するみたいなのもあって、頭パンクしていました。( 法の適用に関する通則法(wiki) という法律があります) あと印象深いのは借金絡みの話で、借金の返済期限を決め方として絶対にやってはいけないこととか、連帯保証はダメっていうけど、何でダメなのか法律の観点から知っておこう、みたいな。 これくらいなら今時調べればすぐ出てきますけど、まあ知っておくと損はないとは思います。 折角学んだことではあるので、頭の整理も兼ねて、自分なりにまとめておくことにします。 まずは借金の返済期限について。 法律上、期限の決め方は3つあるとされています。 「確定期限」「不確定期限」「期限の定めなし」です。 (履行期と履行遅滞) 第412条 債務の履行について確定期限があるときは、債務者は、その期限の到来した時から遅滞の責任を負う。 2 債務の履行について不確定期限があるときは、債務者は、その期限の到来したことを知った時から遅滞の責任を負う。 3 債務の履行について期限を定めなかったときは、債務者は、履行の請求を受けた時から遅滞の責任を負う。 それぞれの意味合いは、 確定期限:〇月×日や来週の日曜日、といったような日時が明確な期限 不確定期限:条件付きの期限。海外に行ったらや事故を起こしたら、のような、日時が不明確で、かつその条件を満たさない可能性があるもの。保険の性質はこれに近い。 期限の定めなし:返済いつでもいいよ、というように、単純に期限を設けないこと。 時と場合によってどれか選ばれるわけですが、お金を借りる場合にやめとけと言われたのは、一番下の期限の定めなし、つまり「いつ返してもいいよ」は絶対ダメだと言われました。 いつでも返していいって言われているんだから、一見よさそうに見えるのですが、ダメです。 理由としては、お金返す期限過ぎてますよって言われるのはいつか?ということです。 確定期限はわかりやすいです

今年のブログについて

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仕事始めから初めての週末。あっという間の1週間でした。 さて今日は、年末で決めた自分との約束事を年始すぐに破った話でも書いてみようかと思います。 何かって言えばこのブログの更新を新年からはしないと決めていました。 私の考えの一つに「見られない名画より見られる駄作に価値がある」っていうのがあるんですけど、このブログって事実データだけを見ると、「見られない駄作」になっているのじゃないかなと思ってました。 各投稿の閲覧数が平均2~4くらいで、MAP経営の社員数の1割もいっていないというのが事実なところです。 会社のホームページにリンク載せていただいている以上、もう少しいきたいなというのが本音だったりします。 これが始めて半年以下とかだったら、低空飛行でもまだいいかなと思うところですが、時期的にもそろそろ高度上げてもいいんじゃないかと思ってて、それがなかなか叶わないのでどうしたもんかと。 見られない=価値がないということであれば、取捨選択をするのも大事かなと思って、まあいいやと思ってました。 そんなことを思っていたわけですが、新年明けて親類以外の人と会う初めての日に、話に出していただきまして、「多少話のネタになるんだったら価値出せるかも」という気の迷いが発動し、少し様子見てみるかで更新始めました。 さて今年のブログの今後。 ざっくりとした目標はあるのですが、修正前提で見切り発車です。 更新頻度もどうするか、というよりそもそも継続する価値があるのか考えないといけません。 目の前の目標達成を目指しつつ今後の方向性決めていこうと思います。 少し更新の頻度も抑えるかもしれませんが、継続していこうと思いますので、 しばらくの間は皆さんのご愛顧をいただければと思います。 どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

SNSサイトに見る「いいね」について考えてみた

昨日ふと思ったのは、昔Facebookには「いいね」しかなく、「悲しいね」とか「ひどいね」がなかったのは、ある意味正しいのではということです。 少し所感を書いてみようと思います。 よく言われるように脳の原始的な部分は、相手に向けられた感情か自分に向けられた感情か判断できず、すべて自分事として捉えると言われています。 「いいね」というわけではないけど、見たという証明がしたいためとか、いろんな理由があって実装されたと思うのですが、改めて考えてみると理にかなっているなって。 プラスの感情を呼び起こすことに意味はあっても、マイナスの感情で自分を満たすことに、そんなに大きなメリットはない気もしますし。 その上見た人だけでなく、投稿した人もその感情に晒されるので、マイナスの連鎖と言えるのかもしれません。 ちょっと話それますけれど、それぞれのリアクションはニュースフィードに影響あるみたいですね。 知らないとマズい、Facebookのリアクションボタンの意味・考え方と使い方 押したリアクションボタンはいずれニュースフィードにも影響 Facebookによれば、当面はどのリアクションボタンを押しても、ニュースフィードのアルゴリズムに対する影響は従来の「いいね!」と同じようなものになります。つまり、ある種の投稿・記事に「悲しいね」を付けても「うけるね」を付けても、それらは「いいね!」と同様の重み付けをされるので、アルゴリズムは「このユーザーは、こういったタイプの投稿・記事が好みなんだな」と判断し、同種の投稿・記事がニュースフィードに表示されやすくなるわけです。 一方でFacebookは、中長期的にはリアクションごとに重み付けを調整する意向を示しており、実際にそのようにアルゴリズムが変更されていくものと思われます。具体的にどのような変化が起きるのかは、これからFacebookのアルゴリズムがおこなっていく"学習"次第となります。 そういった意味でいうと、リアクションできる種類が増えたのは良いことだとも思います。 どんな機能も使う人次第だとは思いますが、 他のSNSサイトが未だに「いいね」だけしかないのは(自分が登録しているのだけしか知りませんけど)、意外にそんな理由なのかもしれないという誇大妄想でした。

些細な失敗を笑うことについて

最近、ここ半年から1年くらいモヤモヤしていることあるんだけど、どう表現すればいいんだろうと思っていたら、これに近い感じだなと思ったものがあるので紹介しようと思います。 外国人の片言日本語を「おもしろい」と笑うべきではない ボビー・オロゴンさんって覚えていますか。「外国人特有の」おもしろい日本語でお茶の間を沸かした彼です。 日本では、外国人の片言日本語は、「なんだその発音」「なにその言い間違え」のように、笑いの対象になります。それは意地悪な意味じゃなくて、愛情のある、いわば「なにしてんねんお前w」みたいな気持ちでの「笑い」であることが大半です。 一生懸命外国の言葉で話している人の日本語を貶すような心の貧しい人もなかにはいますが、実際のところ、暖かく見守りつつ「愛嬌があるなぁ」という意味で「おもしろい」と感じている人がほとんどだと思います。 でも、いくら悪意がなくとも、それは「笑い」になっちゃいけないと思うんですね。 (中略) ええ、相手に悪気はありません。でも、馬鹿にされている気分になるんです。笑われると、チャレンジする気がなくなるんです。 (中略) その悪意ない笑いが、外国語学習者にとってはものすごいプレッシャーになることもあるわけです。辱められてる、みんなに笑われてる、みたいな。悔しいし恥ずかしいし。 外国語の学習だけでなく、あることにチャレンジしている人のちょっとした失敗のときに笑いが起こるのもこれに近いんだろうなって思うんですよね。 大層なことでなくて、身内だけの懇親会の仕切りだとか、社員だけのイベントの司会だとかで、初めてやってみる人が少し言い間違えたとか、話を飛ばしてしまったとか慌てている姿に、笑いとか起こったりしません? それで本人はさらに慌てて、また間違えて、さらに笑いが起こる、みたいな。 なんか私はそこに違和感感じてしまうみたいなんですよね。 初めてやるのもそうだし、継続していることでもいいんですけど、本人にとっては一つの挑戦じゃないですか? 大なり小なり覚悟していると思うわけです。 もちろん気軽に引き受けていたりしていることもあると思いますが、そうでない場合もあるわけで。 見ている周りからすればそんなことでそこまで肩ひじ張らなくてもっていうことでも、本人はそうでないこともありますし。

元号改正とシステム改修

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今朝見た衝撃の一言は、 「今日で20代の昭和生まれが消滅し、30代の平成生まれが誕生した」だった森脇です。 今年は新しい元号の発表がありますが。 「昭和と平成」「1900年代と2000年代」というのが、「平成と〇〇」というのが出てくるのも遠い未来ではなくなってきたなという感じがします。 私自身は平成の世の中しか生きたことがありませんが、そのうち懐かしむようになるのでしょう。 元号の発表でいうと、いつ発表するかの時期がかなり騒がれていますね。 私のようなシステム開発の人間だと注意しないといけないなと身構えるのですが、関係ない人にとっては、時期くらいで何でそんなに騒いでいるのと思うのではないかと思います。 たぶん私もそうです。 「システム修正すればいいじゃん」と思ってるのではと思いますし、その通りなのですが、これがいろいろごちゃごちゃするのです。 2000年問題ってご存知でしょうか? wikipediaにも載るくらい有名な話です。 2000年問題(wiki) 西暦2000年であることをコンピュータが正常に認識できなくなるという問題 当時、想定された問題には、次のようなものがあった。 発電、送電機能の停止や誤作動とそれに伴う停電 医療関連機器の機能停止 水道水の供給停止 鉄道、航空管制など交通機能の停止 弾道ミサイルなどの誤発射。 銀行、株式市場など金融関連の機能停止 通信機能の停止 従って、コンピュータプログラムの訂正が世界規模で行われた。この修正作業に費用と期間が取られてしまい、中小企業などにおいて大きな打撃となった。 1998年12月には小渕恵三が自らテレビCMに出演し、2000年問題への注意を促した。 こんな風に年度の問題や元号の問題というのは意外に面倒くさいのです。 システムを作るというのは家を建てるのと同じで、 建てたい家を考える→設計書を書く→材料を用意する→実際に建てる→完成 という流れになるので、システム修正となるとこれを全部やり直しになるんですよね。 場合によっては家建て直したほう良くね?みたいなことになります。 まあ最近だと修正前提のシステムが多くなってきています。 思っているのと実際に出来たのが違うことも多いですし、時代の流れも早いので、いち早く対応す

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。 システム開発グループ改めソリューションデザイングループ所属になりました、MAP経営の森脇でございます。 本年もどうぞよろしくお願いします。 皆様は年末年始いかがお過ごしでしたでしょうか? 私の年末年始は大阪の実家にて寝正月を決め込んでいました。 帰省当日は新幹線の席が取れず、久方ぶりに立ちながら東京から新大阪まで行きました。 30日の東京駅では「ここが最後尾です」のプラカードを持っている人がいて、やっぱりこの時期は大変だなと実感しました。 あれって何本見逃したら自由席座れるんでしょうか? 無事新大阪に着いたものの、一歩踏み出したら足ガクッとなりました。 乗ってる途中は感じなかったんですけど、疲れていたみたいです。 その足で最寄り駅へ移動し最寄り駅の大改装と初対面。 正直便利になったかはよくわかりませんでしたが、踏切が廃止になっていたので、きっと安全性は高まっている...はず。 家に着き実家の家族と一言二言交わした後は、もうゆったりしてました。 ここ数年当たり前のように年末年始は実家に帰っていましたが、 家族と過ごす年越しの幸せをかみしめないといけませんね。 何事もなく平和に過ごせましたが、 一番書くことがないところに大部分の幸せがあるのではないかと感じる年末年始でした。