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4月, 2019の投稿を表示しています

【読書日記】BG、あるいは死せるカイニス

題名: BG、あるいは死せるカイニス 著者:石持 浅海 【概要】 星降る夜、天文部の観測会に参加したはずの姉が何者かに殺害された。 男性化候補の筆頭で、誰からも慕われていた姉が、何故? さらに期末試験が終わった日、姉の後継者と目されていた小百合までもが被害に。 姉が遺した謎の言葉“BG”とは果たして何を意味するのか―。 全人類が生まれた時はすべて女性、のちに一部が男性に転換するという世界を舞台にした学園ミステリの意欲作 10年近く前に読んだ本で、同じく10年近く読んでいないのに、未だに印象に残っている本の一つです。 人類が雌性先熟(女性として生まれてから途中で男性に性別が変化すること)の世界でのミステリー作品。 ※ちなみに雌性先熟の生物は実際に存在する。 wiki参照 ミステリーとしての目新しさや斬新さというのは私はそこまで感じなかったのですが、人々の心の動きの描写がものすごく印象に残っていて、今でも時々思い出す作品です。 新卒の就職活動の時に最近印象に残った本としても話をした記憶があります。 よろしければご一読ください。

東京駅~銀座駅散策

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4/20の土曜日の午前中、東京駅~銀座付近を散歩してきました。 11時くらいに東京駅に到着、ぶらぶら歩くも特に面白いこともなくお昼。(少し家電量販店に寄ったくらい) お昼になったので地下街に入り、良さげな店に入りメニューを注文。 注文待っている間にふと気づく、先輩の送別会を開いた店であることに。 (幸の鳥: https://r.gnavi.co.jp/gacm901/ ) 自分の記憶力に呆れつつ、ランチ。 鳥がものすごく美味しい。 そのあと食パンがおススメと社員の人から紹介していただいた店に向かう。 (銀座に志かわ: https://ginza-nishikawa.co.jp/ ) 歩いていると途中で警察博物館なるものを発見。 銀座辺りには滅多にこないので、見学。 子ども連れの親子が多くいて、警察の服を試着したり、白バイに試乗したり、推理ゲームで遊んだりと結構内容は豊富でした。 子どもたちの声を横目に警察の歴史を眺めたり、置いている本を読んだりして小一時間ほど過ごしました。 元々目的だったパン屋へ。 少し迷いながらも到着すると、なんと行列。 しかも整理券を配っているだけで、受取にはまた来る必要があるとのこと。 この後用事があったので購入を断念。泣く泣く帰宅。 とまあ特に何かあったわけではありませんが、そこそこの距離も歩けたし、普段だったら絶対行かないようなところにも行けたので、充実した休みだったのではないかと思います。 今日のところはこんな感じで。

里帰り

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休みの土日(4/20、4/21)を利用して大阪に里帰りしてきました。 土曜日の東京駅の新幹線ホーム。 帰りの新大阪駅の新幹線ホーム。 実家に帰って何をしたとか話をしたとかはありませんが、久しぶりに顔を見て話をするだけでも随分気持ちが変わるものなんだなと感じました。 ホント自分にとってありがたい存在だなと思いました。 また今日から頑張りますか!

敵なんて世界にいないのだ、きっと

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今朝ふと思い出した。 そういえば以前、自分が敵だということの意図が全く理解できないというようなことを書いたことがある。 そしてそれはいまだに変わっていない。 過去の自分に驕ることなく、過去の自分が達成した目標を超えることが大事ということはわかる。 ここに異論はない。 自分のサボろうとする心、怠けようとする心を乗り越え、目的・目標に邁進する必要がある。 これもわかる、異議は全くない。 だから敵は外にはいない。 ここも特に別の意見はない。 だから敵は自分である。 ここはまったくわからない。 何かが起こったとき、何かをしようとしたとき、一番近くにいるのは言うまでもなく自分である。 その一番身近にいる人が敵だなんて想像はしたくない。 わかりやすくするために、自分以外の一番身近な人が実は敵でした、なんて状況だと仮定してみてほしい。 こんな状況で安心して何か成し遂げようとすることができるのだろうか? 過去の成功に驕らない、サボろうとしない、ということは、自分を敵と認定しなければできないことなのだろうか? こういうことを諭してくれる人が自分以外にいるとすれば、その諭してくれる人はむしろ味方なのではないだろうか? そんなことを思います。

SNS炎上の火種が増えたのではなく煙が見えやすくなっただけでは?

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この前の大戸屋のバイトテロを始めとして、不適切な行為を撮影した動画をSNS上に上げて炎上するというニュースを見かけることがあります。 Twitterに上がればバカッターなんて名称で呼ばれていたりしますね。 何であんなことするんだろう?みたいな話で、確かに教育の問題云々というのはあるのかもしれませんが、誰かが言っていたけれど、そんなに大騒ぎするほどのことだろうかと思わなくもない。 (参考: むしろ「バカッター」が少ないことに驚く ) 参考としたリンク先の内容は全て同意というわけではないけれど、タイトル名であるように、個人的にもバカッターは少ない気がしている。 いや、少ないというと書きたいことと異なる。 バカッターというより、大本の不適切な行為の数自体は変わっていないのではないかと私なんかは思う。 ただそれが世間の目に触れやすくなったというだけの話なのではないだろうか? 動画が炎上するには、 1.動画が容易に撮影できること 2.動画が容易にアップできること 3.動画が大衆の目に触れる場所に置けること これらの条件を満たす必要がある。    1.動画が容易に撮影できること ひと昔前は、動画を撮影しようと思えば、重たいカメラをわざわざ持っていく必要があった。 それらのカメラも小型化が進んだとはいえ、日常的に持ち歩いているという人は少ないだろう。 翻って、今や携帯電話を持っていれば、ボタン一つで撮影することだってできるようになった。 (初めてフューチャーホンにカメラ機能が付いただけでも話題になったのを覚えている) 動画を撮影するための機材を持ち歩いているということを一切意識することなく、常時持ち歩いているような状況である。 撮影の際に難しい設定も全く必要がない。 何か行動しようとするときに、撮影しようとするハードルがものすごく下がっているというのは事実である。    2.動画が容易にアップできること 基本的に動画データというのは容量が大きい。 画像×音声データになるので、容量は自然と大きくなる。 今やYoutubeやTikTokが台頭してきて動画をアップするのは当たり前になったけれど、動画を上げることがここまで出来るようになったのは、意外に最近だったりする。 私が小学生のときなんかは画像ファイルすら扱うのも

日曜の散策

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4/14日曜日、19卒でMAP経営に入社してくれた新入社員の方に誘っていただき、杉並区をぐるっと散策しました。 JR沿線(高円寺駅~荻窪駅)と丸の内沿線(東高円寺駅~荻窪駅)を、 それぞれ駅を行ったり来たり、駅の周辺をぶらぶらしたりして過ごしました。 歩数計とかを持ち歩いていなかったので、正確な距離はわかりませんが、駅と駅の間だけを地図で調べると、ざっくり7.0kmくらいです。 昼過ぎに集まって食事合わせて21時に解散なので、ほぼ丸一日ですね。 普段外に出ない人間が、それだけの距離を歩くと中々疲れましたが、良い時間を過ごすことができました。 誘ってくれて嬉しかったです。

寄付はモノを送るよりお金を送ったほうが救われる人が多いという経験

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ここ1年で本の寄付を何回か行いました。 本の寄付とはいうものの、現物での寄付(寄贈)もあれば 市への寄付で図書館などの公立施設に使ってくださいとお金を納めたこともあります。 その中で試行錯誤の上、気づいたことや感じたことをまとめてみようと思います。 まず言いたいことは、誤解を生むかもしれませんが、 モノを送るよりお金送るったほうが圧倒的に良いということです。 モノを買ってから送ろうとか思うなら、そのままお金を送ったほうが良いです。 経験上、そう感じます。 皆さんも考えてみてください。 全く興味ないもの(もしくは嫌いなもの)で、5千円相当だよってもらうより、 千円の現金もらって自分で好きなもの買ったほうが嬉しくないでしょうか? これはそういう話と同じだと私は思ってます。 図書館からすれば、読まれるかどうかわからない本を何冊も引き取るより、 今流行りの本を1冊でも買うか、図書館の修繕やイベントに充てた方が、 よっぽど図書館の発展につながります。 少し話は変わりますが、あるFP(ファイナンシャルプランナー)の方から聞いた話で、 災害に遭われた方が「お金があれば引っ越しも出来る、好きなものも買える。でもモノをもらっても出来ることが限られる」という話を聞いたことがあります。 災害時に食料とかも送られているのを見ることがありますが、食料系はどうしても保管期限があります。 一方お金は(多少価値の変動はあれど)いつまで持っていようが大丈夫です。 またモノは使える使えない、言い換えれば受けとる受け取らないの判断が必要です。 さっきの保管期限の問題も然り、保管場所の問題が出ます。 災害時に寄付の受け取りを拒否したら批判が殺到するなどのニュースを聞きますが、批判している暇あったら金送れという話でしかありません。 本当に送り先のことを思うのであれば、批判メッセージ一つ送る前に1円でもいいから送れというだけです。 寄付するときはどの団体に寄付すればいいか、のような話になりがちです。 あの団体は信用できないとか詐欺ではないかなんて話はどこでも聞きます。 ただ寄付先だけを見て、寄付するものを見ないでは片手落ちです。 誰に何を届けたいか、という2軸で考えるようにしましょう。 私は大学時代、公立の図書館に通い詰めていました。

誰かの好きを見るということ

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誰かの好きを見るというのは幸福だなと思います。 幸せな場面を見るのも素晴らしい、こちらも幸せになれる。 ただ対面だとこれがなかなか難しいところがあると感じます。 対面だとどうしても反応がリアルタイムだし、相手が話したいと思うタイミングをある程度見ておく必要があります。 そしてこれを一部克服したのがネット、SNSになるのかなと思います。 好きなときに好きなことを投稿してもいい。 相手の反応をいちいち伺う必要もない。 Twitterはそれをシステム化し、あの規模まで上り詰めたわけです。 確かに反応やリアクションを気にすることもあるし、インスタ映えの言葉が流行したように本末転倒感が出ている場合もあります。 でも本来的には、その人が本当に思ったこと、感じたこと、見聞きしたことが並ぶのがSNSであるのかなと思います。 そこに「私はこれが好きです!」というのを情熱的に語っているのを見ると、こちらが感化される気がしてきます。 もちろん犯罪行為や倫理的にダメなものは、感化されるわけにはいきませんが、気持ちこもっている投稿見るのは、心動かされるようで本当に楽しいです。 私もそんな投稿をしていければと思います。

好きなものに対するお布施の話

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昨日、ゲームに対するお布施の話を見ることがありました。 ここでいうお布施とは、私の解釈では、 「値段や内容よりもただ応援したいから購入すること」という意図です。 例えば、贔屓にしている会社が出している商品に対して、中身はよくわかっていないけど、新商品が出たらまず買う、話はそれからだ、というのもお布施になるという解釈です。 他にも、あるアーティストが出すもの全て購入とかもその一つかなと思います。 今回このお布施について書こうと思ったのは、最近そんなことばっかやってるとどんどんお金が減っていくかつ場所取るなと感じたからです。 数年前から応援したいと思ったものや発展してほしいものにお金を使うということを可能な限り実践しているのですが、目についていいなと思ったもの買うようになってきました。 書籍とか音楽CDとかPCゲームとか買うのですが、一度も読まず一度も聴かず一度もプレイせずと言った状況が続いています。 しかも何がたちが悪いって、応援だからなのか、一度として使わずとも一切の後悔がないことで、むしろ次の作品の制作費になってるとか思ってしまうと、喜びすら覚える状態で、止まる気配がないことだったりします。 そうやって経済回しているから特段問題ないんですが。 読みたいものも聴きたいものもしたいものも溜まる一方だし、かといって今やっていることもやりたいと思ったからやっていることばかりで、したいことできる時間がもっとほしいなと思ったりもします。 ただここまでお金を投じたいと思えるものに出会えた幸せはかみしめてもいいなと思ってます。 買おうかどうか考えるだけで楽しいし、実際購入するとそれだけで嬉しいし、買ったやつを活用するのはさらに楽しい。 まあ言ってしまえば些細なことで単純に楽しめるのは幸せだなというだけの話です。

最高の時代を翔ける私

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令和が発表され平成の時代が終わるまであと少しとなりました。 平成時代しか生きていない私にとっては初めての元号またぎとなります。 皆様にとって平成はどのような時代でしたでしょうか? いい時代だったと見るか悪い時代だったと見るか解釈によりますが、平成しか知らない私としては、ぜひともいい時代だったと思いたいところです。 受け売りを書くと、「どんな時代も今よりいい時代にしようともがいた人がいるのだから、その人たちを蔑ろにしないためにも、前の方が良い時代だったと言わないようにしたい。」 私もその考えに大賛成です。 きっと今私たち、私は歴史上一番良い時代を生きているはずです。 災害を見れば、阪神・淡路大震災、東日本大震災。 景気を見れば、バブルの崩壊にリーマンショック。 向けるところに目を向ければ、そういったところも目につくでしょう。 しかし、すでに調査されているように、世界の貧困率は20年で半分以下になり、 教育を受けられる人も増え、災害でなくなる方は100年で半分になりました。 ネットやSNSが新たなインフラとなり、今まででは出来なかったことが出来るようになったり、つながることが出来なかった人とつながることも出来るようになりました。 (出典: FACTFULNESS ) 平成に生まれ、育ち、ゆとり世代だなどと揶揄されながら、懸命に生きていきた私にとって、これ以上平成の時代が悪かったなどと言われれば、何のために生まれてきたのかという話です。 絶対に過去よりいい時代だったと言われるよう私自身まだまだやれることをやらなければなりません。 またこれからの時代ももっと良いものになるよう作り上げていかなければなりません。 さあ新しく今までよりもっと良い時代を共に築いていこうではありませんか!

ロールモデルも大事だけどないことに焦る必要もないよ

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新年度が始まり新社会人となられている方も多いと思います。 1週間程度経過いたしましたが、皆さんいかがでしょうか? 会社になじめそう、やっていけそうと思う方もいれば、 ちょっと厳しいかもと思う方もいるかと思います。 どんな感情持っても自分に正直になりましょう。 行動に直結させるかどうかの選択肢は皆さんにありますので、どんな感情を持っても直情的に動くかは考える必要はあります。 しかし感情そのものを否定するとしんどいというのが個人的な経験なので、醜いと思える感情が湧いてきても否定することなく、じゃあそう感じた上でどの行動を選択するか考えてもらえたらなと思います。 今回はロールモデルの話。 キャリアを描く上でいわゆるロールモデル、こんな人になりたい、というような人がいることが大事と言われたことはないでしょうか? ロールモデルが大事だということは否定しないですし、いた方がいいとは思いますが、今回の投稿はそう気負う必要ないよ、という観点で述べていこうと思います。 さて、個人的にロールモデルがいらないシーンとして考えるのは、この人のために尽くしたいと思う人が出たときだと思っています。 なぜならば、この人のために尽くしたいということは、その人と一緒に何かしたいわけで、そうすると同じタイプの人は成果を出すには不要だからです。 当たり前ですが、同じタイプの人が集まって何かをするということは、出来るものも議論の内容も同じものです。 変化の激しい昨今に置いて違うタイプの人と同じ目的で何か成果を出すということが重要になります。 同じ目的という前提はもちろん必要ですが、その目的を成し遂げるための道筋をそれぞれ描けないのであれば、個人の限界がそのままその集団の限界になってしまいます。 だからこの人のためにできることはすると思える人がいたならば、その人はロールモデルとは正反対になるはずで、ロールモデルがなくてもその人とぶつかりながらも一つの方向に向かった方がいい、 それが私がロールモデルを絶対視しない理由です。 もちろん上に書いたような人がいた上で、なおかつロールモデルがあった方がいいというようなこともあったりするので一概に言えないですが、 その辺りも含めて改めて考えてみると、新しい発見があるのではと思います。

どんな発信にだって評価する人がいるのだから卑下する必要なんてない

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「こんな投稿にいいねしてくれてありがとうございます」と言われて思ったこと、 「それ私に対して失礼じゃね。」 今日も今日とてSNSでつながっている方と交流をしている森脇です。 人と人の縁は大事にしていきたいですね。 もちろん相性や目的もあるので、つながる人がどんな方かというのは大事です。 さて最近冒頭に書いたようなやり取りがあって、(実際は「こんな投稿とか」じゃなくてもっと自分を卑下するようなことが書いてありましたが)何だかなあと思った次第です。 まあ別にこういう投稿自体はよく目にするというか、口にする人もきっといるはずで(いやいや私なんて、というやつですね)謙虚なのはいいことだとは思うのですが、褒めたものを下に見るって、個人的にはあまり良い気分しないなというのが正直なところです。 少し被害妄想かもしれませんが、お前の見る目ないよって言われているみたいじゃありませんか? 自分が良いと思ったから、いいねしたわけで、そんなに大したことないよと言われるということは、大したことないものにいいねする自分は見る目ないのでは?と解釈してもおかしくないと考えてしまいます。 自信がないのはわかるのですが、発信している以上、していない人より何倍もすごいというところと、 評価する人がいるわけですから、そこは自信をもって受け止めてほしいなと思います。

金銭を渡してやってもらったら1円の価値も無いような話

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好きなブロガーさんがいます、いや今回の話はブロガーだろうが何だろうが、何か発信する人だったらなんでもいいんですが。 Youtuberでもインスタグラマーでも、どれでも大丈夫ですが、個人的に書きやすいので文中ではブロガーでいきます。 好きなブロガーということは、自分にとって有益、益はなくとも見ているその間だけは自分にとっていい時間を過ごさせてくれる人ということになります。 良い情報をくれるとか、共感できる内容であるとか、いろいろあると思います。 いつも自分にとって楽しい情報ばかりを提供してくれればいいですが、もちろんそんなことはほとんどありません。 自分にとってどうでもいい内容もあるでしょうし、見たくないものが出てくる場合もあるでしょう。 時々ならまだしも、そんな状態が続くと見るのもしんどくなりますよね。 そんな時に人によっては「お金払うからこのカテゴリでずっと書いてほしい!」という風に思うこともあるかもしれません。 で、ちょっと思いめぐらしてみたのですが、たどり着いた結論は、「すごくつまらなそう」でした。 いや確かに自分好みのものが出来上がるのかもしれません。 でもそのブロガーの人が発信したいものを発信し、利害関係がないから面白いものができているはずで、お金を払って自分の書いてほしいものを書いてと考えると、全くワクワクしないなと思いました。 受け取る側は発信する側の提供を待つしかないのかなと思います。 もちろん受け取る側はそれを見て、自分の中に入れるか、無視するか、という選択肢があります。 その選択肢を自分で持ちつつ気長に待ちましょう。

変化を楽しめないのは変化を起こす側じゃないから

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今日朝礼で変化楽しいですよね、という話が出ました。 確かにそうだ、という思いと、なんか腑に落ちないなという思いが頭を巡ったので、改めて考えてみることにしました。 結論としては、 「人は(受動的な)変化は苦手だが、(能動的な)試みは好きだ」ということなんじゃないかなと思います。 まあこの言葉は下のリンク先からの受け売りなんですけどね。少し文言に自分の解釈を入れましたけど。 結局、「すぐ試す人」には、かなわない。 まあこれはネットでもいろんな人が発信していることを見ればすぐ納得できる話でもある。 例えばだけれど、幼少のころからスポーツが嫌いな人がいる。 トレーニングなんてもっての他で、体育の授業なんて苦痛そのものだった。 ずっと運動もせずで来たけど、ふと興味が湧くものがあった。 やってみるとめっちゃ楽しい。 そのためのトレーニングすらしんどいけど全然苦にならない。 なんでだろうと思い返せば、やることを自分で選択したからだと気づく。 こういった話はいくらでも転がっている。 私自身も自らの意思でスポーツクラブに通うのは楽しかったし、今でもトレーニングを続けられている要素の一つは間違いなく自分でやると決めたからでもある。 変化を好むようになりたいのであれば、自ら変化を起こすしかないのである。 変化と言えばおおげさに聞こえるが、要は昨日と違うことを今日するだけのことである。 通勤時に道を1本変えてみるのもいいだろう。 1本早い電車に乗ってみるのもいいかもしれない。 大した変化じゃない? 小さな変化がいずれ大した変化になっている、習慣が大事だといわれる所以でもある。 そもそも小さな変化で体を慣らしておけば、大きな変化が来ても波に乗りやすいだろう。 やってみたいと思えば、ちょっとずつでもやっていくしかないのである。 リンク先の言葉を再び借りるのであれば、試すことはどう転んでも生産性の向上につながるのだから。

誰をどういった視点で大切にするのか考えてみた

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最近の体験でふと下のリンク先で書いていることを思い出しました。 「あえて一見さんには、居心地悪くさせる」という、風変わりなショットバーの話。 リンク先の記事は、(私の解釈も入りますが)要は、 一見さんが来たときには、リピーターのお客さんをめっちゃもてなす。 そうすると一見さんから見て、自分もああいう風に扱ってほしいと思う人がちらほら出てくる。 そういう人がリピーターになってくれる。 というような話です。 個人的に印象的なのは文中の 「十人をなんとなく満足させるより、十人中九人外しても一人に強烈な印象を与える」 は頭に入れておかなければならないなと感じます。 さて、冒頭に書いた最近の体験ですが、「(SNSで)どうやったらそんないいねもらえるんですか?」という質問をもらいました。 こんな質問をいただけること自体ありがたいなと思いながらも、あんまり考えたことなかったので、改めて考えてみたときに、リンク先の記事を思い出しました。 投稿内容の質という点においては明らかに質問者の方が高いと感じたので、そこにはあまり触れず、何を大事にしてきたかを振りかえると、ぶっちゃけかなり贔屓していたなと思います。 誰にと言えばフォローしてくださっている人=フォロワーに。 SNSしている方ならご存知の方も多いと思うのですが、 いただく反応はざっくりと「フォロー」「シェア(リツイート)」「いいね」「コメント」の組み合わせになります。(サイトによっては他にもあったり、書いてあることがなかったりしますがここでは上のことを前提に進めます) 上に書いていることがなければ、反応なし、です。 この中でもフォローの機能は、これからもあなたの投稿を見続けますよという意思表示みたいなものです。 リアクションいただいた方も大事ですが、それ以上にせっかくいただいた縁を続けてくれると言ってくれる人を大切にしたいなという思いから、フォローしていただいた人だけにすることとかを決めていました。 究極的にはネットの向こう側にいる人を大切にするという話に帰結するわけですが、リアクションいただける方を大切に、フォローいただける方をもっと大切に、を繰り返しているうちに、先述の質問をいただけるまでになりました。 特段何か成し遂げたわけでもないですし、有名になったわけでもない

新入社員の方に質問されるような人になりたい

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Facebookを見ていると思い出として、昨年の同じ日にこういう投稿をしましたよというのが出てきます。 今日それが出てきたので何かと思えばこんな感じの文章が出てきました。 「わからないことは何でも聞いてください。 誰に聞いたら答えがわかりそうか答えます」 上記のはとある方言っていたことですが、 私が思うに自分のためにもこういう人一人はいた方がいいのではと思います。 新入社員の方って特定の事象に対して誰に聞いていいかわからないし、 みなさん忙しいので邪魔しては悪いかなと思ってしまう。 でもそうやって事態を悪化させてしまうこともある。 そして聞かれる方もあからさまに機嫌が悪いと聞いてこなくなるから、 機嫌よく仕事している必要がある。 聞かれる人になるって双方メリットあると思います。 今月もよろしくお願いいたします。 今年も新入社員が入ってくる季節になりました。 右も左もわからない中、わからないことがわからないなりに彼彼女たちは前に進もうとしています。 それにブレーキをかけることなく、むしろハンドルとなってアクセルとなって補佐していくには、昨年投稿したような内容のことがあってもいいんじゃないかと思います。 質問しやすいように機嫌よく行動し、 質問されて返答しやすいようにどう質問すればいいか共に考え、 彼彼女らが自分より活躍し優秀になってくれるよう伴走する。 そんなことが出来ていければと思っています。 それでは最後に昨年と同じ言葉を記して終わりにします。 「わからないことは何でも聞いてください。誰に聞いたら答えがわかりそうか答えます」

人の趣味を貶す人はその人以上に創った人と提供者を貶しているという話

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周りにたまにいると思うのですが、趣味とか人のやっていることに対して、「なんでそんなことやっているの」とか「やめた方がいいよ」とか言う人っていると思います。 上に書いたことはまだオブラートに包んでいる方で、ものによっては「そんなのやっているのは犯罪者予備軍だ」みたいなこと言ったり、言わなくてもそういった雰囲気出す人もいると思います。 まあ雰囲気に関しては解釈なので、被害妄想かもしれませんが。 世間のイメージやその人の価値観があるので、物事に対する評価をどうこう言う気は全くありませんが、いったん立ち止まって考えてほしいなと思うことがあります。 その趣味に対する評価が低い、場合によっては貶していると取れる言動をすることは、やっているその人を貶しているというのはわかりやすい話です。 でもその前にそれを作っている人がいて、それを流通させている人がいるわけで、その人たちが汗水流して作ったものを貶すということは、回り回って作った人をも貶しているんではないかな、なんて私なんかは思うわけです。 まだ「もっといいものがあるよ」とか「こっちの方がおススメだよ」はわかります。 むしろそうやって好きなものの輪を広げるという世界は良いと思います。 違うものに関しては「そんなものもあるんだ」くらいで済ませるか、逆にどういうことがおススメか聞くくらいにしたいなって思います。 好きなものについて理由が出てこなくても、好きなものが一つでもあるってことはきっと素晴らしいことのはずです。 お互いに尊重し合えるようなそんな世界になるよう行動していかなければなりませんね。