ボランティアから見る世界

東京五輪のボランティアの話が少し前に話題になりました。

こんな条件で来るか?という批判がいくつかありました。
一番最初の要項では、
外国語ができて、10日近く+事前講習に出る必要があるみたいなので、
集まらなかったら学生が動員されるのではという懸念もあるようです。

私はケチをつけられる立場でもないので、これ以上は控えておきます。
東京2020大会のボランティア活動(東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)

昔読んだ文章の中で印象深く、今でも記憶に残っているボランティアについての記載があります。
ボランティアは無償でなければいけないのか?みたいな話の中で、
海外では報酬ありますよ、という話です。

その記載の中では、ボランティアは元々は今の罪を清算するためのものとのこと。
ここでいう罪とは法律を破ったとかではなく、
人に親切にすべき時にしなかったとか、
ちょっとしたルール破ったとか、そういったものです。

罪を清算するのは、死んだ後幸せに過ごすためです。
もちろん金銭の報酬があるボランティアもあるようですが、
身を清めて次の世界へ飛び立つためにボランティアを行うという側面があるようです。
人のために行うというのもあるけど自分のためにもなっているということですね。

結論としては、
日本は死後の世界をどうするという土壌が弱いため、
ボランティアが広まりづらいのではというお話です。

思い出しながら書いていたので、詳細は違うかもしれませんが、
だいたいこのような感じです。

私が思うにきれいごとを述べるだけで何もしないよりも、
多少不純な動機であっても行動を起こしたほうがいいと思っています。
ボランティアも同じで、大事だ大事だというのでなく
たとえ自分のためであっても行動起こしているほうが素晴らしいと思います。

日本でボランティアが広まらない理由に
「人のためでなければならない」「無償でやるのが正しい姿」があるなら、
「自分のため」「有償でもいい」などで広まってほしいなと思います。

もちろん人を救うという純然たる動機は素晴らしいことです。
ただ人を助けるという行動の足かせになっている部分が少しでも減ることを
願ってやみません。



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