小説読んで価値観学ぶ

大学時代、私の人生の中で一番本を読んだ時代だと思います。
特に小説はジャンルも作者も出版社も問わず。
1番読んだ年は200冊弱だから、2日に1冊は読んでいた計算になります。
このペースが速いか遅いかはわからないですけれど。

図書館にはよく行きました。
2週間の貸し出し期限なのに15冊も借りて、4冊は読めなくて延長手続きしたのを今でも覚えています。
しかも貸し出し上限は8冊だったので、いろいろと手続きを踏んで上限を上げてもらったのにも関わらず読み切れませんでした。
それだけ読みたい本に出会えた幸運には感謝しないといけないとは思っています。

ただ最近本を読む冊数が減ってきた、というより図書館に行く回数が減ってきました。
なので今、小説読む頻度も減っています。

その理由の一部が下に引用した内容ではないかと思っています。
なぜ読まなくなったのか。端的に言うと、疲れて読めなかったからだ。
自分ではストレスなんて感じていないつもりでいたけれど、おそらく疲れていたのだと思う。
(中略)
疲れていると、活字が頭に入ってこない。活字を読むのにエネルギーって必要だったっけ?そうか、疲れていると、本を読むことができないのか。知らなかった。読めなくなって、初めて知った。
もちろん、これまでだってエネルギーを使わないと読めない本はたくさん存在していた。
活字を読むのにエネルギーを必要とすることがある、ということは理解していた。ただ、それは私にとって難解であるとか、興味がない分野であるとか、何かしらの理由があってのことだった。
でも、働き始めて本を読めなくなったのは、そういうレベルではなかった。興味のある分野で、難解な内容ではない、これまでの自分だったらワクワクしながら読んでいると思われる本も、読む気になれない。これまでに経験したことのない現象だった。
(中略)
余裕がないと、読めない。まず、活字が読めない。次に、活字が読めるようになっても、小説を読もうと思わない。活字を読むエネルギーと、その中でも“小説”を選ぶ意思がないと、小説を読むという選択はされないのだ。
全部同意します。
肉体的にだろうが精神的にだろうが疲れてくると本を読むと言うのは後回しになりやすい。
その上一回後回しにしてしまうと戻すのが難しい。習慣みたいなものだから。
小説を読むのにエネルギーが必要なことが社会人になってからわかりました。
それでも本を読むのは楽しい。

読まなくなって何か問題があるのかと言われれば特段ない気もするし、
他にやることもやりたいこともあります。
学生時代に読まなかったいわゆるビジネス書や自己啓発の類の本を買う機会は格段に増えて、全体の冊数は減っても、読むこと自体が嫌になったわけでもありません。

ただ先の引用元の最後の方にこんな文章があります。
小説を読まなくなって、自分が薄くなったのかと聞かれると、正直なところよくわからない。薄くなったという感覚はない。
小説を読まなくても他の本はたくさん読んだし、小説を読まなかったその時間で、様々な経験をした。それはきっと小説を読んでいてもできたことだったと思うけど、小説を読まなくても、人間が薄くなったとは思わない。
私は読まなくなってから薄くなったような感覚がするときがあります。
感覚的なものなので、どう変わったかというのは言語化しにくいのですが、
多様な価値観に触れる機会が減ったのではないかなと思っています。
薄くなったというより、感情に触れることが少なくなったと言えばいいのかもしれませんが。

個人的には小説っていろんな価値観を知るのにすごい便利なツールだと思っています。
まず作者の価値観でベースの世界が作られ、各登場人物が与えられた価値観の中でそれぞれ動く。
話が進んでくると、「登場人物たちが勝手に動いてくれました」とあとがきに書かれることがあります。
与えられた価値観がいろいろと絡み合って与えられたものでない価値観が生み出されるのかなと私は思っています。
だから小説って読むといつの間にかいろんなことを学んでいたりすると思っています。
そういった意味でも小説を読む時間をもっとふやしていこうと思います。

さて昨日家に届いた本を読むとしますか!

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