見返りは天下の回り物

見返りを求めることほど、効率の悪い賭けはないように思う。
「〇〇してあげたのに、あの人は何もしてくれない」みたいなのを時々聞くが、
「してあげたのに」というスタンスが上から目線になっているし、
そもそも「お金を貸したほうは覚えているが借りたほうは忘れている」というのに代表するように、された側は覚えていないことのほうが多い。
だから見返りを求めようと思っても、たいてい期待外れに終わる。

見返りを求めてますなんて言ってしまおうものなら、
あの人は損得勘定で動くから、というようなことまで言われかねない。

期待せずに返ってきたらラッキーくらいに留めておくのがいいはずである。

この考えにずっと変わりはないのだが、これがなかなか難しいと感じる。
見返りを完全に求めないなんてことが出来る人もいないとは言わないが、
多くの人にとってそれは厳しいのではと思う。
私だって見返りを求めたいときだってある。

例えば、あなたはプライベートで親しい人から無料でお願い事をされた。
パソコン詳しいから設定してほしいとか、英語得意だからこの文章を翻訳してほしいとか、などなど。
あなたはそれに応える。もしかしたら何回か頼まれるかもしれない。
依頼者からお礼は言われる。でも行動で返ってくることはない。
こんなにやってあげているのにと思うことはないだろうか?というお話である。

イライラしても仕方ないので、個人的な意識の変え方を考えてみた。
賭けの期待値、オッズが低いなら賭ける対象を変えてしまえばいい。
どこか。直接依頼された当人でないなら、他の人しかない。
そうだ!Aさんからの見返りをBさんから求めよう。
変だろうか?でもこう考えてほしい。
Bさんからもらった優しさを、Aさんに与えているだけだと。
Bさんから先にもらったように見えるので、見返りという言い方が変かもしれないが、
またBさんからさらなる優しさをもらえるかもしれないし、次はCさんが自分に対して何かしてくれるかもしれない。

誰かに優しくされたら、自分が過去誰かに優しくしていたからだ。
誰かに助けてもらったら、自分が過去誰かを助けたからだ。
だからもっと人に優しくし、人を助ける人になっていくのではないかと。

見返りだって天下の回り物だと考えてみればいい。
俗に言う、情けは人の為ならず、と同じかもしれない。
見返りを求めるなら、その本人からより、別の人から期待したほうがはるかにいい。
もしかしたらそれは、今後一生会うことのない、その日すれ違っただけの人かもしれない。
行動は自分のためであってもいいと思う。
でも当人に求めるより、どっかで返ってきて帳尻合ってるんだろうなと思い、
当人から返ってきたら超ラッキーくらいに思っていた方がいいと思う、
ということを、自戒も込めて、改めて考えてみました。


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