投稿

誰かの好きを見るということ

イメージ
誰かの好きを見るというのは幸福だなと思います。 幸せな場面を見るのも素晴らしい、こちらも幸せになれる。 ただ対面だとこれがなかなか難しいところがあると感じます。 対面だとどうしても反応がリアルタイムだし、相手が話したいと思うタイミングをある程度見ておく必要があります。 そしてこれを一部克服したのがネット、SNSになるのかなと思います。 好きなときに好きなことを投稿してもいい。 相手の反応をいちいち伺う必要もない。 Twitterはそれをシステム化し、あの規模まで上り詰めたわけです。 確かに反応やリアクションを気にすることもあるし、インスタ映えの言葉が流行したように本末転倒感が出ている場合もあります。 でも本来的には、その人が本当に思ったこと、感じたこと、見聞きしたことが並ぶのがSNSであるのかなと思います。 そこに「私はこれが好きです!」というのを情熱的に語っているのを見ると、こちらが感化される気がしてきます。 もちろん犯罪行為や倫理的にダメなものは、感化されるわけにはいきませんが、気持ちこもっている投稿見るのは、心動かされるようで本当に楽しいです。 私もそんな投稿をしていければと思います。

好きなものに対するお布施の話

イメージ
昨日、ゲームに対するお布施の話を見ることがありました。 ここでいうお布施とは、私の解釈では、 「値段や内容よりもただ応援したいから購入すること」という意図です。 例えば、贔屓にしている会社が出している商品に対して、中身はよくわかっていないけど、新商品が出たらまず買う、話はそれからだ、というのもお布施になるという解釈です。 他にも、あるアーティストが出すもの全て購入とかもその一つかなと思います。 今回このお布施について書こうと思ったのは、最近そんなことばっかやってるとどんどんお金が減っていくかつ場所取るなと感じたからです。 数年前から応援したいと思ったものや発展してほしいものにお金を使うということを可能な限り実践しているのですが、目についていいなと思ったもの買うようになってきました。 書籍とか音楽CDとかPCゲームとか買うのですが、一度も読まず一度も聴かず一度もプレイせずと言った状況が続いています。 しかも何がたちが悪いって、応援だからなのか、一度として使わずとも一切の後悔がないことで、むしろ次の作品の制作費になってるとか思ってしまうと、喜びすら覚える状態で、止まる気配がないことだったりします。 そうやって経済回しているから特段問題ないんですが。 読みたいものも聴きたいものもしたいものも溜まる一方だし、かといって今やっていることもやりたいと思ったからやっていることばかりで、したいことできる時間がもっとほしいなと思ったりもします。 ただここまでお金を投じたいと思えるものに出会えた幸せはかみしめてもいいなと思ってます。 買おうかどうか考えるだけで楽しいし、実際購入するとそれだけで嬉しいし、買ったやつを活用するのはさらに楽しい。 まあ言ってしまえば些細なことで単純に楽しめるのは幸せだなというだけの話です。

最高の時代を翔ける私

イメージ
令和が発表され平成の時代が終わるまであと少しとなりました。 平成時代しか生きていない私にとっては初めての元号またぎとなります。 皆様にとって平成はどのような時代でしたでしょうか? いい時代だったと見るか悪い時代だったと見るか解釈によりますが、平成しか知らない私としては、ぜひともいい時代だったと思いたいところです。 受け売りを書くと、「どんな時代も今よりいい時代にしようともがいた人がいるのだから、その人たちを蔑ろにしないためにも、前の方が良い時代だったと言わないようにしたい。」 私もその考えに大賛成です。 きっと今私たち、私は歴史上一番良い時代を生きているはずです。 災害を見れば、阪神・淡路大震災、東日本大震災。 景気を見れば、バブルの崩壊にリーマンショック。 向けるところに目を向ければ、そういったところも目につくでしょう。 しかし、すでに調査されているように、世界の貧困率は20年で半分以下になり、 教育を受けられる人も増え、災害でなくなる方は100年で半分になりました。 ネットやSNSが新たなインフラとなり、今まででは出来なかったことが出来るようになったり、つながることが出来なかった人とつながることも出来るようになりました。 (出典: FACTFULNESS ) 平成に生まれ、育ち、ゆとり世代だなどと揶揄されながら、懸命に生きていきた私にとって、これ以上平成の時代が悪かったなどと言われれば、何のために生まれてきたのかという話です。 絶対に過去よりいい時代だったと言われるよう私自身まだまだやれることをやらなければなりません。 またこれからの時代ももっと良いものになるよう作り上げていかなければなりません。 さあ新しく今までよりもっと良い時代を共に築いていこうではありませんか!

ロールモデルも大事だけどないことに焦る必要もないよ

イメージ
新年度が始まり新社会人となられている方も多いと思います。 1週間程度経過いたしましたが、皆さんいかがでしょうか? 会社になじめそう、やっていけそうと思う方もいれば、 ちょっと厳しいかもと思う方もいるかと思います。 どんな感情持っても自分に正直になりましょう。 行動に直結させるかどうかの選択肢は皆さんにありますので、どんな感情を持っても直情的に動くかは考える必要はあります。 しかし感情そのものを否定するとしんどいというのが個人的な経験なので、醜いと思える感情が湧いてきても否定することなく、じゃあそう感じた上でどの行動を選択するか考えてもらえたらなと思います。 今回はロールモデルの話。 キャリアを描く上でいわゆるロールモデル、こんな人になりたい、というような人がいることが大事と言われたことはないでしょうか? ロールモデルが大事だということは否定しないですし、いた方がいいとは思いますが、今回の投稿はそう気負う必要ないよ、という観点で述べていこうと思います。 さて、個人的にロールモデルがいらないシーンとして考えるのは、この人のために尽くしたいと思う人が出たときだと思っています。 なぜならば、この人のために尽くしたいということは、その人と一緒に何かしたいわけで、そうすると同じタイプの人は成果を出すには不要だからです。 当たり前ですが、同じタイプの人が集まって何かをするということは、出来るものも議論の内容も同じものです。 変化の激しい昨今に置いて違うタイプの人と同じ目的で何か成果を出すということが重要になります。 同じ目的という前提はもちろん必要ですが、その目的を成し遂げるための道筋をそれぞれ描けないのであれば、個人の限界がそのままその集団の限界になってしまいます。 だからこの人のためにできることはすると思える人がいたならば、その人はロールモデルとは正反対になるはずで、ロールモデルがなくてもその人とぶつかりながらも一つの方向に向かった方がいい、 それが私がロールモデルを絶対視しない理由です。 もちろん上に書いたような人がいた上で、なおかつロールモデルがあった方がいいというようなこともあったりするので一概に言えないですが、 その辺りも含めて改めて考えてみると、新しい発見があるのではと思います。

どんな発信にだって評価する人がいるのだから卑下する必要なんてない

イメージ
「こんな投稿にいいねしてくれてありがとうございます」と言われて思ったこと、 「それ私に対して失礼じゃね。」 今日も今日とてSNSでつながっている方と交流をしている森脇です。 人と人の縁は大事にしていきたいですね。 もちろん相性や目的もあるので、つながる人がどんな方かというのは大事です。 さて最近冒頭に書いたようなやり取りがあって、(実際は「こんな投稿とか」じゃなくてもっと自分を卑下するようなことが書いてありましたが)何だかなあと思った次第です。 まあ別にこういう投稿自体はよく目にするというか、口にする人もきっといるはずで(いやいや私なんて、というやつですね)謙虚なのはいいことだとは思うのですが、褒めたものを下に見るって、個人的にはあまり良い気分しないなというのが正直なところです。 少し被害妄想かもしれませんが、お前の見る目ないよって言われているみたいじゃありませんか? 自分が良いと思ったから、いいねしたわけで、そんなに大したことないよと言われるということは、大したことないものにいいねする自分は見る目ないのでは?と解釈してもおかしくないと考えてしまいます。 自信がないのはわかるのですが、発信している以上、していない人より何倍もすごいというところと、 評価する人がいるわけですから、そこは自信をもって受け止めてほしいなと思います。

金銭を渡してやってもらったら1円の価値も無いような話

イメージ
好きなブロガーさんがいます、いや今回の話はブロガーだろうが何だろうが、何か発信する人だったらなんでもいいんですが。 Youtuberでもインスタグラマーでも、どれでも大丈夫ですが、個人的に書きやすいので文中ではブロガーでいきます。 好きなブロガーということは、自分にとって有益、益はなくとも見ているその間だけは自分にとっていい時間を過ごさせてくれる人ということになります。 良い情報をくれるとか、共感できる内容であるとか、いろいろあると思います。 いつも自分にとって楽しい情報ばかりを提供してくれればいいですが、もちろんそんなことはほとんどありません。 自分にとってどうでもいい内容もあるでしょうし、見たくないものが出てくる場合もあるでしょう。 時々ならまだしも、そんな状態が続くと見るのもしんどくなりますよね。 そんな時に人によっては「お金払うからこのカテゴリでずっと書いてほしい!」という風に思うこともあるかもしれません。 で、ちょっと思いめぐらしてみたのですが、たどり着いた結論は、「すごくつまらなそう」でした。 いや確かに自分好みのものが出来上がるのかもしれません。 でもそのブロガーの人が発信したいものを発信し、利害関係がないから面白いものができているはずで、お金を払って自分の書いてほしいものを書いてと考えると、全くワクワクしないなと思いました。 受け取る側は発信する側の提供を待つしかないのかなと思います。 もちろん受け取る側はそれを見て、自分の中に入れるか、無視するか、という選択肢があります。 その選択肢を自分で持ちつつ気長に待ちましょう。

変化を楽しめないのは変化を起こす側じゃないから

イメージ
今日朝礼で変化楽しいですよね、という話が出ました。 確かにそうだ、という思いと、なんか腑に落ちないなという思いが頭を巡ったので、改めて考えてみることにしました。 結論としては、 「人は(受動的な)変化は苦手だが、(能動的な)試みは好きだ」ということなんじゃないかなと思います。 まあこの言葉は下のリンク先からの受け売りなんですけどね。少し文言に自分の解釈を入れましたけど。 結局、「すぐ試す人」には、かなわない。 まあこれはネットでもいろんな人が発信していることを見ればすぐ納得できる話でもある。 例えばだけれど、幼少のころからスポーツが嫌いな人がいる。 トレーニングなんてもっての他で、体育の授業なんて苦痛そのものだった。 ずっと運動もせずで来たけど、ふと興味が湧くものがあった。 やってみるとめっちゃ楽しい。 そのためのトレーニングすらしんどいけど全然苦にならない。 なんでだろうと思い返せば、やることを自分で選択したからだと気づく。 こういった話はいくらでも転がっている。 私自身も自らの意思でスポーツクラブに通うのは楽しかったし、今でもトレーニングを続けられている要素の一つは間違いなく自分でやると決めたからでもある。 変化を好むようになりたいのであれば、自ら変化を起こすしかないのである。 変化と言えばおおげさに聞こえるが、要は昨日と違うことを今日するだけのことである。 通勤時に道を1本変えてみるのもいいだろう。 1本早い電車に乗ってみるのもいいかもしれない。 大した変化じゃない? 小さな変化がいずれ大した変化になっている、習慣が大事だといわれる所以でもある。 そもそも小さな変化で体を慣らしておけば、大きな変化が来ても波に乗りやすいだろう。 やってみたいと思えば、ちょっとずつでもやっていくしかないのである。 リンク先の言葉を再び借りるのであれば、試すことはどう転んでも生産性の向上につながるのだから。